(◔⊖◔)< こんばんは、シナカミインコです。
今日はもう朝から暑かったですね……日が沈んでもなお暑い。
明日は今日より暑いみたいな予報を見て、(;´Д`)な顔になっています。
インコ達を涼しい部屋に移動させねば……。
さて、私は今占星術を習っていますが、
他にもタロットを勉強し直したり絵や文章創作についても
色々とやりたいことに繋がりそうなやれること、をやっています。
そんな中でふと思ったのが、
「教えてほしいことを教えてもらえることのありがたさ」。
今はこれが占星術に当たります。
わからなくなったり迷ったりしたら聞くことができる。
それって本当にありがたいことなんだなぁと。
今は色々なことが、ネットや本で調べての独学もできないことはないでしょう。
(中には無理な分野もあるでしょうけど)
でも自分が信頼している人に教えてもらえれば吸収はやっぱり早い。
時には信頼する前に、興味が先行してということもあるかもしれません。
でも自分がその人に教わりたい、話を聞きたいと思ったなら
やっぱりある種の信頼はあると思います。
ちょっと上から目線ぽい言葉になるかもですが、
「自分が選んだ」事には違いないわけです。
(本やネットで記事を書いてくださる人達もありがたいなぁと思います)
私は以前、会社勤めのシナリオライターとして働いてたことがありました。
ここで、信頼している人に自分たちが手がけているジャンルでの、
キャラの作り方やセリフの考え方を教わりました。
ですが、ゲームシステム的なもの……スクリプトとかなんですけども、
そういうのも教えて欲しいと伝えたものの、時間の都合上叶いませんでした。
環境がある程度整っていても、教えてもらえるとは限らない。
会社にいる以上は相手の時間も会社としての時間もあります、それは仕方のないことです。
だからこそ、特に自分が教わりたいと思っていることを
教えてもらえる状況になったなら、それを当たり前だと思わない方がいいなぁと。
例え習うのにお金などの対価を払っていたとしても、です。
お金貰っても教えたくないって人も普通にいると思いますから。
だからこそ、教えてくれる人の好意を踏みにじるような真似だけはしたくないものです。
中には強制的に教わることになったものに対して、苦痛を感じる人もいると思います。
それはまた少し別でしょう、本当に苦痛なものならいつか習うのを止める事ができると思いますしね。
今回のはあくまで自分が教わりたい物事に対しての話。
話はちょっと違いますが、自分は特に教え子やら弟子やらを募ったことはないんですが、
約二名、なぜか私を「師匠」と呼んでくれる人がいます。
ジャンルはそれぞれ違いますが、いつの間にかそうなってました。
最初は否定していたというか、そんな域に達していないと止めたんですが。
なんだかんだ今でもそう呼ばれることがあります。
段々諦めて……と言うのは少し違いますが、
そう呼ばれるのなら呼ばれるなりの自分であろうという考えにシフトして、
教えてほしいと言われたことには自分の知りうる限り、
できる限りで応えるようになってきました。
そのために自分もまだまだ学ばなければとも思うようになりました。
別にその二人に「私に感謝しろ!」とかは微塵も思ってないんですけどね。
私が誰かに何かを教わったor教わっているという体験を、
ジャンルこそ違えどこうして循環させることができているのなら、
それはなんだか良いことなのかもしれないなぁ、とぼんやり思うのでした。
自分が何かを教えられる状態・環境というのも、凄いことなのかもしれない。
……でもやっぱり、未だに呼ばれることは不思議な感覚を伴いますけどねw(◔⊖◔)